本社(本殿・幣殿・拝殿)
本社(本殿・幣殿・拝殿)
国指定重要文化財
元禄八年(1695)、相馬家21代相馬中村藩5代藩主の相馬昌胤が現源社殿を建立しました。
建物内外部全体を、漆塗り・彩色・飾り金具・彫刻で装飾した建築で、その手法や意匠は全国的にみて先駆的です。特に本殿の外陣(げじん)及び内陣(ないじん)の天井絵をはじめとする装飾、外部の板壁を埋め尽くす彫刻等が圧巻です。
宮殿(くうでん)三基
国指定重要文化財(附)
本社の祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと、応神天皇)、帯中彦命(たらしなかつひこのみこと、仲哀天皇)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)の三柱です。本社本殿内陣には、それぞれのご神体が納められている宮殿(くうでん)が三基あります。
扁額一面「八正宮」
国指定重要文化財(附)
本社拝殿に掲げられており、参拝の際にいつでも見ることが出来ます。元禄八年(1695)に五代藩主の相馬昌胤が現社殿を造営したときに、後陽成院第十の宮の梶井宮沙門慈院が揮毫(きごう)しました。昌胤の父の三代藩主の相馬忠胤と梶井宮は従兄弟の関係にあることから、梶井宮は相馬中村藩に多大な支援をしていました。
摂社 若宮八幡宮
若宮八幡宮
国指定重要文化財
若宮
祭神 仁徳天皇(にんとくてんのう)
神徳 慈愛・学業成就
上甲良
祭神 武内宿祢(たけのうちのすくね)
神徳 武運長久・延命長寿
下甲良
祭神 高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)
神徳 厄除開運・延命長寿
本神社の中で最も古い歴史があり、大同年間(806-809)の創立で、その後の八幡宮の創立により摂社(せっしゃ)となりました。
現社殿は、相馬中村藩五代藩主相馬昌胤が本社を建立した祭に同時に建立されており、昌胤自ら神事を斉行したと棟札に記載があります。
宮殿(くうでん)三基
国指定重要文化財(附)
若宮八幡宮内陣に三基あり、仁徳天皇他二神のご神体がそれぞれ納められています。木組み彩色が素晴らしく、極めて精巧に作られています。
亀齢社(きれいしゃ、旧剱社)
亀齢社(きれいしゃ、旧剱社)
国指定重要文化財
祭神 相馬中村藩八代藩主 相馬恕胤(そうまもろたね)
元禄八年(1695)、相馬家二十一代相馬中村藩五代藩主相馬昌胤が相馬家十六代相馬義胤を祀り剱社(つるぎしゃ)を創建しました。
寛政七年(1795)相馬中村藩九代藩主相馬祥胤(よしたね)が八代藩主相馬恕胤(もろたね)を祀って中野の熊野神社社地に亀齢社を創建、天保十三年(1842)に十二代藩主相馬充胤(みちたね)が亀齢社を当地に遷し剱社と相殿にしました。
明治二十一年(1888)、剱社が相馬神社社地に遷り、現在は亀齢社のみとなっています
重文指定 末社三社
住吉・粟嶋・貴布根神社
国指定重要文化財(附)
住吉神社
祭神 底筒男命(そこつつおのみこと)
中筒男命(なかつつおのみこと)
表筒男命(うわつつおのみこと)
神徳 家内安全
粟嶋神社
祭神 少彦名命(すくなひこなのみこと)
神徳 国土開発・諸行繁栄
貴布根神社
祭神 高龗神(たかおかみのかみ)
神徳 祈雨・止雨
元禄八年(1695)、相馬中村藩五代藩主相馬昌胤により建立、当初住吉・粟嶋・貴布根の三社は別棟でしたが、天保(てんぽう)十三年(1842)に三社を合わせ1棟の相殿になりました。
元禄年間(1688-1704)の建築様式を今に伝えています。
多賀(珂)・足尾神社
国指定重要文化財(附)
多賀(珂)神社
祭神 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
神徳 健康長寿
足尾神社
祭神 猿田彦命(さるたひこのみこと)
神徳 健脚・交通安全
元禄八年(1695)、八幡宮の別当寺八幡寺の僧専海が建立しました。
明治三十八年(1905)まで多賀神社のみでしたが、その後足尾神社と相殿になりました。
元禄年間(1688-1704)の建築様式を今に伝えています。
稲荷神社
国指定重要文化財(附)
祭神 保食命(うけもちのみこと、宇氣母知神)
神徳 食物・農耕などの諸産業の守り神
元禄八年(1695)、相馬中村藩の大宮司田代左京進賢信が建立しました。
元禄年間(1688-1704)の建築様式を今に伝えています。
他 末社三社
體興霊神(たいこうれいじん)
祭神 相馬中村藩家老 門馬八郎兵衛隆経とその子二人
安永二年(1773)、門馬八郎兵衛隆経は無実の罪で二人の子共々処刑され、以後城中でタタリが続いたため、寛政五年(1793)、相馬中村藩九代藩主相馬祥胤(よしたね)が中野の熊野神社社地に筒宮を建立し祀りました。
文化十三年(1816)、十一代藩主益胤が隆経の曾孫で門馬家を再興、また中野反町に體興霊神を建立し筒宮を合わせ祀り、以後タタリは無くなりました。
昭和五十年(1975)に相馬家三十三代相馬和胤公が斎主を勤め、当地に遷座しました。
伊勢大御神
祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
神徳 総氏神・招福 産業の守り神
祭神 豊受大御神(とようけのおおみかみ)
神徳 産業の守り神
寛保中に(1741-4)に城中に勧請しました。
万延元年(1860)に中野反町に、平成三十年(2018)に当地に遷座しました。
富士神社
祭神 木花咲耶姫(このはなさくやひめ)
神徳 山・安産・酒造等の守り神
相馬中村の旧家の氏神で、平成元年に当地に遷座しました。
木花咲耶姫は、大山津見神の娘で高天原から降りた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と結婚し、火に囲まれた中で三男子を無事に出産しており、生まれた子の一人の山幸彦の孫が神武天皇です(古事記より)。
随身門(ずいしんもん)
随身門
国指定重要文化財
元禄八年(1695)、相馬中村藩五代藩主相馬昌胤が本社、摂社、末社を建立し境内を整備したとき、同時に整備された神門です。
神社の守護神である矢大神像をむかって左側に、左大神像を右側に配置した正面三間の門です。
ご神像は、冠を戴き袍(ほう)を着し、矢を背負い剣を帯びた五位以上の武官の服装で、正式な随身の姿であることが名称の由来です。
随身
東側、左大神
随身
西側、矢大神
絵馬殿・神楽殿
絵馬殿
元禄八年(1695)の本社建立時に同時に建設されましたが、明治三十六年(1903)の普請時の出火で消失し、明治四十四年(1911)に再建されました。
昭和五十年(1975)の新社務所の建設により、北側の現在地に移設されました。
新築された神楽殿
例大祭にて初披露 平成27年9月19日
神楽殿
平成二十三年(2011)3月11日の東日本大震災の復興を祈念して、平成二十六年(2014)に建設されました。
これを契機に、途絶えていた八幡の神楽を復活させこの舞台で神楽舞いを奉納したい、との気運が盛り上がり翌平成二十七年(2015)に神楽保存会を再結成、名称を「涼ヶ岡八幡神社神楽保存会」とし、同年9月18,19日の例大祭宵祭りと本祭りで初披露しました。
鳥居・放生池と神路橋・参道
鳥居
元禄八年(1695)、相馬中村藩五代藩主相馬昌胤が境内を整備したときに建設されました。掲げられている「八幡」の額は、当時の書家として名高い佐々木玄龍が揮毫(きごう)したもので、若宮八幡宮に掲げられている3枚の額も彼の揮毫によるものです。
大正時代に修繕がなされ、昭和二十九年(1954)に鉄筋コンクリートで改築され、平成二十三年(2011)の東日本大震災により一部損傷しましたが、同年に修繕・再塗装しました。
放生池と神路橋
藩主相馬昌胤命名
元禄八年(1695)に、相馬中村藩五代藩主相馬昌胤が境内を整備したときに放生会を行うために池が建設され、橋も架けられました。相馬昌胤が池を「放生池」、橋を「神路橋」と命名しました。
また当時から桜樹が植えられ美しい景観を心がけていたことがうかがえられ、現在は相馬随一の桜の名所として親しまれています。
昭和五十七年(1982)に、従来の木造から鉄筋コンクリートに架け替えられました。
参道
元禄八年(1695)に、相馬中村藩五代藩主相馬昌胤が境内を整備したときに同時に整備されました。神路橋から西におよそ300ートル、途中右側に四方堀があり、四方堀の内側に本社・摂社・末社・他が鎮座しています。
江戸時代にはここで流鏑馬が行われており、昭和の中期にも行われた記録があります。桜並木となっており、春には多くの花見客がみえます。